―演技を考えるー

MAKENKI2005-08-24



今日は葵VSエルメス前夜祭ということで、葵こと女優堀北真希の演技について考えてみたいと思います。


演技とかについては、私はかなりシロウトでよくわかりませんが、わからないなりに、いち堀北真希ファンとして考えてみたいと思います。


まず、“演技”ってそもそもどういう意味か、調べてみました。

フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より引用
演技(えんぎ)とは、それを見る者がいる前提において、身体による技術を見せ、何かを表現する行為。
具体的には、演劇や映画・テレビドラマなどにおいて、俳優が役を演じて見せることを演技と呼ぶ。また、舞踊、歌唱、体操などにおいても、その表現を演技と呼ぶことがある


と言うような意味。


『身体による技術を見せ、何かを表現する行為。』
とゆう意味が“演技”という意味に含まれていることから
何をどのように身体で表現するか
が“演技”をする上で一番大事だと思われる。


また“演技”のもう一つの意味として
フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』より引用
日常生活においても、本心を隠して相手を偽ることや、集団の調和を得るために本心に関係なく何らかの役割を担って見せる行為なども演技と呼ばれることがある。


というような意味もあるので、演劇や映画・テレビドラマなどにおいての“演技”もあくまでも役を務める(演じる)行為である。


俳優が行う“演技”とは「与えられた役を、身体による技術で表現する」と言う行為ではないかと私は考える。


“演技”その物の意味について考えてみたので、次にいい女優さんには何が求められているのかを考えてみたい。


そもそも「いい演技とは何か」そこから考えてみたい。


いい演技とは月並みですが、見ている人の目を奪い、演じている世界に引き込まれ、演じている役に感情移入できる、とこんな感じではないかと思います。


では、本題のいい女優には何が求められているのかですが、女優と男優では求められているものは違うのでしょうか?


この疑問にはいい答えがあったのでそちらを載せておきます。
フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の“俳優”のページのノート、MHさんの意見より引用。
。「男優」(actor、俳優) 「女優」(actress)という言い方は、通俗的には残っていますが、良し悪しは別にして、ポリティカル・インコレクトとされがちな表現であるが故に、海外では消える傾向にあります。もちろん、日本でも海外でも、ファン心理(特に男性ファン)や、プロダクション側の売り方の問題として、「女優」という言葉が強調される場合は多々あります。しかし、演じる側のアイデンティティとしては、ほとんどの場合において、演技はあくまでも演技ですし、「俳優」はあくまでも「俳優」です。また、男優と女優の定義の違いには、男か女かであることしかありません。


私もこの意見を読んでなるほどなと思いました。
演技はあくまでも演技です。男も女も関係ないのです。


これを踏まえ、いい俳優には何が求められているのかを考えてみる。


いい演技が出来るのがいい俳優なのはあたりまえだが、もっと違う見方もあるのではないかと思います。
いい演技が出来るだけがいい俳優さんの条件ならば、もっと大勢の人が活躍しているはず。
その演技は出来るが、活躍できない人と活躍している人との違いがいい俳優に求められているものなのではないでしょうか。


私が考えるいい俳優に求められているものとは
「演じている中でも自分らしさが出せる。そして、自分らしさが大きな花となって存在感が生まれ、また見ている人の目を引く輝きが生まれ、見ている人を幸せに出来る。」


だと思うのです。


人を幸せに出来る、これが大事なのではないでしょうか。


さてさて、これまで“演技”について語ってきましたが、本題中の本題
女優堀北真希の演技
についてです。


堀北真希の演技ですが、私は概ね良いと思っています。
自分というものも演技の中に出せていると思ういますし、ずいぶん考えて演技しているみたいですし、『電車男』の中でもうまい部類ですし。


私が思ういい俳優に求められるものも持っていると思うんです。
大きな花も、輝きも。


私は堀北真希の演技を見れば幸せになれます。
それはファンだからかと思いになるかも知れませんが、現に『電車男』ではかなりの人を魅了して、ファンにしています。
それは、その人を幸せにしたって事だと思うんですよね。













結論「女優堀北真希は十二分にいい俳優であり、またこれからも一歩一歩着実に目指す俳優に近づいて、世界中の人を魅了する日が訪れる」
以上。


ではでは、ごきげんよう